2010年7月28日水曜日

「偶有性の時代の国家観・人間観」 茂木健一郎

http://www.qualia-manifesto.com/voicemogi200802.pdf
誰もが「自分自身のアイデンティティ」を模索せざるを得ない状況
若者たちの間では、「キャラがかぶるのはまずい」
グラフ理論で言う「単連結」(一つながりの状態)の関係性で結ばれた現代の地球社会においては、ある特定の「個性」は、極端なことを言えば一つだけあれば事足りる。
情報化した社会においては、あるポジションを占める「ソフトウェア」は有力なものが幾つか(多くの場合一つ)あれば良い。
脳の仕組みに即して言えば、自身のユニークさを掘り下げるためには、何よりも自分というものを客観的に見る「メタ認知」のプロセスが大切。
常に、「他者の目」を通して自分自身をメタ認知し、評価し続ける。そのような姿勢なしに、世界に通じる卓越した価値を示すことはできないのが現代。

国境/起源

茶の湯は、とりわけ外国から見た時に、現在の日本文化の「時価総額」のうちかなりの部分を占めている。

日本人は素材としては一人ひとりきわめて個性的である。ただ、少しでも尖ると「平均値」へ引きずり降ろそうとする「ピア・プレッシャー」が強すぎるだけ

周囲の空気を読むくらいの芸当は別に日本人でなくてもできる。肝心なのはその後、他人に合わせることを優先させるか、それとも自分の個性を発揮することを心がけるかの違い


国境という、国家という制度に内在する偶有性よりも、インターネット上の偶有性の方が多くの生活者にとってよほどリアルで、しかも経済的にも大きな意味を持つ主戦場となりつつある。
検索エンジン、オークションサイト、書籍販売の世界における「天下統一」を目指して争っている。
「ネットの論理」自体を相対化するような
「千利休」の天才は未だ現れていない。

大切なのは、今日の人類にとって価値あることを見きわめる「プリンシプル」と、そのような原則を貫きつつこの世の生という「偶有性の海」を泳いでいく「覚悟」

PHP 研究所 VOICE 2008年2月号 p.142~p.151
(『「日本論」の危うさ』として所収)

http://genxx.com/blog/archives/000187.htmlより
偶有性(contingency 偶発)とは、「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」ことだった。なにも難しい言葉を使わなくても、たとえば「運が悪い」ってのも偶有性の問題だ。論理的必然性、および明確な因果関係は無い、けれどもなぜか自分が被害者に選ばれてしまった、ということ。

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